mont’s diary

非定期更新

死ぬのがこわい話

数日前、ふと死への恐怖みたいなものを自分も久々に抱きました。

 

小学生のときも、時々死ぬのが怖くなっていました。自分がいつかいなくなってしまうことに漠然とした不安を覚えた記憶があります。1回親に泣きついた記憶もあります。しかし、その恐怖はいつのまにか消えていました。

 

その恐怖が、数日前に再燃しました。何がきっかけだったか、明確には覚えていません。たしか、就活を通して人生設計みたいなものにふと目をやってみたときに、人生って始点と終端時刻が定まった最適化問題だよなあと考え、そのときに終端時刻である「死」を直視してしまったからかもしれません。あるいは、ここ数週間タスクに追われる日々だったのが多少ひと段落し、考える時間が生まれてしまったからかもしれません。寝る直前、ふと怖くなりました。

 

何がこわいのかと言うと、端的に言えば無化が怖いです。今まで途切れることなく*1この意識が続いているし経験則的に今後も続いていくと心のどこかで期待してしまうけど、実はそんなことはなく、いつか必ず死に意識は無くなります。もちろん今までも、いつか意識が途切れ死ぬことは理解していたつもりでしたが、いざその瞬間が来た時のことを考えると急に怖くなってしまったのです。

 

人間の意識は時間軸の正方向に沿っています。生まれてこのかた、自分の意識と時間とは対応していました。しかし、死を境に意識は姿を消します。時間は進んでいくのに。ああ怖い。

 

この恐怖の厄介なところは、人に共感してもらったところで決して癒えないという無根拠な確信があった点です。もちろん自分に限らず世の中の多くの人は死を恐れていると思います。それは重々承知なのですが、それでも死が怖いのです。 

 

あと、この疑問を再度抱くようになって、世の中の大半の人々がなぜ死を恐れず平然と生きていられるのかが不思議でならなくなりました(煽りとかではない)。いつか消滅してしまうのになぜ怖くないのか。70や80のおじいちゃんおばあちゃんが死を目前にしてなおなぜ恐れ戦かないのか。ちなみに僕はこれを考え始めてから何もやる気がなくなり、体は重くなり、何か動作をするたびに死を意識してしまうようになりました笑

 

とある友人にこれを話してみると、古代ギリシャエピクロスという人の言葉を教えてくれました。

死はわれわれにとって何ものでもないと考えることに慣れるようにしたまえ。というのは、善いことや悪いことはすべて感覚に属することであるが、死とはまさにその感覚が失われることだからである。

死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い。

いやまあ当たり前に聞こえますが、いざ言語化されてみると「たしかに、気づかなかった」となりました。納得しました。

 

しかし、これを教わってもなお、死は怖いです。「我々は死を経験しない」というのは少なくとも論理的には納得できる。ではなぜ怖いのか。自分の恐怖の根元がよく分からなくなりました。

 

生きることに愛着があるから?そこまで明確に愛着を感じたことはないのですが、つまるところそういうことなのでしょうか。

 

あるいは、消滅という体験が未知だから?ただエピクロス的に言えば我々の意識が消滅を感じることはないのだから、何も怖いことはない、となります。うーん。そうなのか?

 

中学、高校、大学と進みましたが、死を意識することはありませんでした。もちろんニュースでも身の回りでも、死という単語を見なかったわけではないです。また、口先では「死ぬまでに〜したい」だの「〜できるのなんて一生に一度」だの言うこともありました。

決して死を無視していたわけではないのだと思います。でも、どこか他人事のような気分でいたような気がします。不思議ですね。ちなみにこれはハイデガー的には頽落と言うらしいです。

 

たぶん、臭いものには蓋をする感じで、死を直視しないのが最善な気がします。ですが、今後周りに訪れる死の頻度は上がるでしょうし、自分の死も確実に迫ってきます。今後幾度となく死を意識し恐怖することはあると思います。そのときにこのブログを見返すことができればなあ。はてなブログさん頑張ってください。

あと、この死への恐怖を言語化できる人いたら教えてください、、、。

*1:もちろん寝れば意識は途切れますが、必ず復活します