スイス脱出劇
先日までスイスに留学していたのですが、国としても個人としても激動の2週間だったのでこれは文章に起こして記録せざるを得ないと思いブログにします。
(端的にまとめると、スイスに留学していたが大学院生が、スイスでのCOVID-19に関する異変を感じ始めてからロックダウンされ奨学金が止まり電撃帰国するまでの3週間程度の日記のような後日談です)
2月23日
イタリアでの感染者が前日の20人程度から急に150人になった。アジアで起きている対岸の火事イベントが、すぐそばで起きたので少し不安になった。
2月25日
スイス初の感染者。まあスイスは公用語にイタリア語も入っているくらいイタリアと密接に関わっている国であり、イタリアで100人以上出てるんだから仕方ないわな、という感想だった。
2月26日
初めて大学からCOVID-19に関する連絡が来た。中国、北部イタリア、イラン、韓国への旅行の禁止、これらの地域からの帰国者にリモートワークの要請。身の回りに目に見える変化は全くない。国内感染者数は2人。
2月28日
1000人以上の大規模イベントの中止が発表され、楽しみにしていたジュネーヴモーターショーが消えた。大学からも上記と同様の内容のメールが来た。この時点で感染者は13人。
2月29日
スキーに行く予定だった友達数名に、コロナが怖いから行かないとドタキャンされてしまい、ぼっちスキーを決行。
3月1日
確かこの辺りから、コロナの感染者数を毎日ネットで確認するようになった。うわーアジアやベー、イタリアも大変だな、と思っていた。
3月2日
たしか研究室の先輩がドイツから遊びに来た。感染者数も40人と着々と伸びてきていたので会うかどうか相談したが結局会った。
3月4日
少し不安になっていたこともあり、大使館に在留届を出した(今更)。毎日国内の状況に関するメールが来るようになった。結果的にこれは非常に役に立ったので、海外に住む国民は須くこれに登録すべきです。
3月5日
スイスにおいて初の死亡者が出た。
3月9日
日本でコロナのせいで中止になってしまった某団体の演奏会をYouTubeで聞いていた。演奏会まで中止になってしまうなんて日本大変だなあくらいの認識だった。そう思っていたら、外務省がスイスの感染症危険レベル0→1への引き上げを発令した。
3月10日
感染者数480人。イタリアの二の舞になっているなあという感想をようやく抱き始めた。
この日あたりから大学が(少なくとも表立って)動き出した。
夕方あたり、大学から、明日から150人以上の講義のオンライン移行が発表された。友人と、一部の講義をオンライン化したところでみんな大学には来るだろアホかwみたいなことを話していた。
3月11日
150人以上のイベントの禁止、教育目的などの海外渡航禁止、外部者のキャンパス立ち入り禁止が大学から夕方発表された。確かこの辺りで感染者数が日本を上回った。
3月12日
夕方、全ての講義のオンライン移行が発表された。期間は明日から4月19日まで。僕は研究室通いだったので、「とうとう来たか。明日からキャンパスが寂しくなるな」程度の捉え方だった。
あと、ETHZ(チューリッヒにある大学)は2月から6月まで春学期全ての授業のオンライン移行が発表されていた。国からは、ジム、美術館、バーなど100人以上が集まる施設・イベントの禁止措置がなされた。
感染者数は858人。
3月13日
この日は金曜日で週末を間近に控えていた。
昼間。ラボの幹部ミーティングが行われたらしく、学部生はラボの出入り禁止になった。僕は修士だったので「あぶねー」と思っていた。
夕方。大学から、大学全関係者のキャンパス内立ち入り禁止という発表された。昼間の安心から一転、自分どころかPhD生などまで立ち入り禁止にされてしまった。とんでもない事態になったと思った。許可されているのは、オンライン授業を行うための教授の立入などのみ。
感染者数は1139人。近所のスーパーからはパスタが消えた。
3月16日
月曜日。スイス連邦政府が緊急事態宣言を発動した。キャンパス立ち入り禁止期間について、4月末までという文言が消され、「終了期限未定」となった。修士論文以外の研究室プロジェクトは全て中断となった(この時点では僕のプロジェクトは続行だった)。感染者数は2353人。
日本の外務省が、スイスなどを含めた欧州全域の感染者危険レベルを2以上に引き上げた。これに伴い、「海外危険情報がレベル2以上の地域への奨学金の給付を停止する」という要項に従って奨学金の支給がストップした。また、EU及シェンゲン協定内域への30日間の入域制限令が出て、隣国フランスでは罰則付きの外出禁止令が発動されるなど、国の規制への動きが非常に活発になったのを感じた。
別の日本の大学から同じ大学に交換留学に来ていた友人は、大学から帰国要請が来たため帰国するという旨の連絡が来た。
僕もこの時点で帰国するか悩み始めた。上記の通り国際間の移動が日々確実に制限されていっていたため、数日以内に決断する必要があるという焦りがあった。一応7月の帰国用に取っておいた航空券を早めに変更しておくかと思い電話を掛けていたが8時間程度電話してもつながらなかった。とりあえず数ヶ月程度ならお金もどうにかなるので、帰るか帰らないかどちらの方が研究をちゃんと続けられそうかで決めることにした。結局、この日は「コロナによる強力な規制がいつまで続くのかが不確定すぎて帰るか帰らないかの判断ができない」という結論で寝た。
3月17日
火曜日。
朝。日本の教授に相談がてら電話をしたが、結局結論は出なかった。
昼ごろ、ラボのSupervisorから急に連絡が入り、君のプロジェクトも中断されたと聞かされた。大学の上層部により、プロジェクト中断の範囲が広がったのだと思われる。この時点で帰国を決定した。戻ってくるかが非常に怪しいため、この時点で寮の引き払いを決断し、緊急引越し帰国RTAが始まった。
寮の退寮手続きは交渉の結果、状況を鑑みて恩赦で翌々日行ってくれることとなった。神だと思った。FMEL大好き。一番好きなMaisonです。そのほか諸々の出国に伴う手続きに関する情報は、周りの(主に日本人の)コミュニティから情報を聞き出しまくってどうにかした。
航空券が少し大変だった。情報が錯綜しすぎていたのと、手続きが全て終わるのか不透明だったことから、この日は購入できなかった。
3月18日
一日中引越しの準備。この時点でスイスは様々な国からの越境禁止措置がなされており、経由地でメジャーなフランクフルトやブリュッセルなどに渡ることが可能なのか不明だった。3時間以上かけて国内で一番大きい空港まで行けば直行便がでているが、数も少なく一本飛ばなかった時のリスクが大きそうだったので、近所の空港から毎日出ているエミレーツ航空のドバイ経由で翌日帰国することを決めた。
帰国後の自主隔離方法も検討していた。自分含め周りの留学生は大体実家しか帰る先がなく(元一人暮らしでも大体契約終了している)、多くは祖父母と住んでいるため、それらの学生は空港近郊のホテルを探しているようだった。正直自分も実家かホテルどっちで自主隔離するべきか分からなかったし、政府などからもそれに関して発表は特になく判断に困った。
感染者数は3070人。死者数は21人。人口が800万人であることを鑑みると、日本より遥かにやばかった。単位人口あたりの感染者数はイタリアに次いで2位。
3月19日
朝、寮のフラットメイトに別れを告げて空港に向かった。複数のスイス人の知り合いから「明日から罰則を伴う厳しい規制が引かれる」という噂を聞いてアブネーと思った。出発地の空港では、必ず人と人との距離を2m以上あけるための強い管理体制が引かれていた。空港にいる人はほぼアジア人だった。
ここからはスムーズに進んだ。遅れていたドバイでの検疫もなく、3時間のトランジット時間をブラブラして潰し、日本行きの飛行機に乗った。
3月20日
日本到着。空港では特に厳しい検疫を受けることもなく普通に入国できた。こんなんで大丈夫かとだいぶ心配になった。帰国時恒例の空港で吉野家の牛丼を食べるイベントも自粛して速攻帰宅した。各方面に帰国を報告した。ニュースを見ると、スイスでは5人以上の集まりに対し罰則が課せられたとの報道がなされていた。あとワニが死んだ。
まとめ。
緊急事態宣言がなされた中で色々と行動すること事態初めてで新鮮で(不謹慎だが)少し楽しかったし、帰国するか(=留学中断)しないかというそこそこ人生を左右する決断を迫られたのも良い経験だった(こちらは微塵も楽しくなかった)。なんか忘れてしまうのももったいないので、そこそこ詳細まで記録として書いておいた。
2月26日に初めて「ん?」と感じる発表を受けてから、キャンパスロックダウンなどの厳しい措置がなされるまで深刻な事態になるまで本当に2週間程度だった。日本は今のところ比較的under controlなため、緊急事態宣言まで出された地域から帰国するとあまりに社会が平穏すぎて逆に不安になる。今は自宅で自主隔離中だが、2週間後に外にでたら外出禁止令で罰金取られた、なんてことがないように祈りつつ、引きこもり生活を送っています。