スイス脱出劇
先日までスイスに留学していたのですが、国としても個人としても激動の2週間だったのでこれは文章に起こして記録せざるを得ないと思いブログにします。
(端的にまとめると、スイスに留学していたが大学院生が、スイスでのCOVID-19に関する異変を感じ始めてからロックダウンされ奨学金が止まり電撃帰国するまでの3週間程度の日記のような後日談です)
2月23日
イタリアでの感染者が前日の20人程度から急に150人になった。アジアで起きている対岸の火事イベントが、すぐそばで起きたので少し不安になった。
2月25日
スイス初の感染者。まあスイスは公用語にイタリア語も入っているくらいイタリアと密接に関わっている国であり、イタリアで100人以上出てるんだから仕方ないわな、という感想だった。
2月26日
初めて大学からCOVID-19に関する連絡が来た。中国、北部イタリア、イラン、韓国への旅行の禁止、これらの地域からの帰国者にリモートワークの要請。身の回りに目に見える変化は全くない。国内感染者数は2人。
2月28日
1000人以上の大規模イベントの中止が発表され、楽しみにしていたジュネーヴモーターショーが消えた。大学からも上記と同様の内容のメールが来た。この時点で感染者は13人。
2月29日
スキーに行く予定だった友達数名に、コロナが怖いから行かないとドタキャンされてしまい、ぼっちスキーを決行。
3月1日
確かこの辺りから、コロナの感染者数を毎日ネットで確認するようになった。うわーアジアやベー、イタリアも大変だな、と思っていた。
3月2日
たしか研究室の先輩がドイツから遊びに来た。感染者数も40人と着々と伸びてきていたので会うかどうか相談したが結局会った。
3月4日
少し不安になっていたこともあり、大使館に在留届を出した(今更)。毎日国内の状況に関するメールが来るようになった。結果的にこれは非常に役に立ったので、海外に住む国民は須くこれに登録すべきです。
3月5日
スイスにおいて初の死亡者が出た。
3月9日
日本でコロナのせいで中止になってしまった某団体の演奏会をYouTubeで聞いていた。演奏会まで中止になってしまうなんて日本大変だなあくらいの認識だった。そう思っていたら、外務省がスイスの感染症危険レベル0→1への引き上げを発令した。
3月10日
感染者数480人。イタリアの二の舞になっているなあという感想をようやく抱き始めた。
この日あたりから大学が(少なくとも表立って)動き出した。
夕方あたり、大学から、明日から150人以上の講義のオンライン移行が発表された。友人と、一部の講義をオンライン化したところでみんな大学には来るだろアホかwみたいなことを話していた。
3月11日
150人以上のイベントの禁止、教育目的などの海外渡航禁止、外部者のキャンパス立ち入り禁止が大学から夕方発表された。確かこの辺りで感染者数が日本を上回った。
3月12日
夕方、全ての講義のオンライン移行が発表された。期間は明日から4月19日まで。僕は研究室通いだったので、「とうとう来たか。明日からキャンパスが寂しくなるな」程度の捉え方だった。
あと、ETHZ(チューリッヒにある大学)は2月から6月まで春学期全ての授業のオンライン移行が発表されていた。国からは、ジム、美術館、バーなど100人以上が集まる施設・イベントの禁止措置がなされた。
感染者数は858人。
3月13日
この日は金曜日で週末を間近に控えていた。
昼間。ラボの幹部ミーティングが行われたらしく、学部生はラボの出入り禁止になった。僕は修士だったので「あぶねー」と思っていた。
夕方。大学から、大学全関係者のキャンパス内立ち入り禁止という発表された。昼間の安心から一転、自分どころかPhD生などまで立ち入り禁止にされてしまった。とんでもない事態になったと思った。許可されているのは、オンライン授業を行うための教授の立入などのみ。
感染者数は1139人。近所のスーパーからはパスタが消えた。
3月16日
月曜日。スイス連邦政府が緊急事態宣言を発動した。キャンパス立ち入り禁止期間について、4月末までという文言が消され、「終了期限未定」となった。修士論文以外の研究室プロジェクトは全て中断となった(この時点では僕のプロジェクトは続行だった)。感染者数は2353人。
日本の外務省が、スイスなどを含めた欧州全域の感染者危険レベルを2以上に引き上げた。これに伴い、「海外危険情報がレベル2以上の地域への奨学金の給付を停止する」という要項に従って奨学金の支給がストップした。また、EU及シェンゲン協定内域への30日間の入域制限令が出て、隣国フランスでは罰則付きの外出禁止令が発動されるなど、国の規制への動きが非常に活発になったのを感じた。
別の日本の大学から同じ大学に交換留学に来ていた友人は、大学から帰国要請が来たため帰国するという旨の連絡が来た。
僕もこの時点で帰国するか悩み始めた。上記の通り国際間の移動が日々確実に制限されていっていたため、数日以内に決断する必要があるという焦りがあった。一応7月の帰国用に取っておいた航空券を早めに変更しておくかと思い電話を掛けていたが8時間程度電話してもつながらなかった。とりあえず数ヶ月程度ならお金もどうにかなるので、帰るか帰らないかどちらの方が研究をちゃんと続けられそうかで決めることにした。結局、この日は「コロナによる強力な規制がいつまで続くのかが不確定すぎて帰るか帰らないかの判断ができない」という結論で寝た。
3月17日
火曜日。
朝。日本の教授に相談がてら電話をしたが、結局結論は出なかった。
昼ごろ、ラボのSupervisorから急に連絡が入り、君のプロジェクトも中断されたと聞かされた。大学の上層部により、プロジェクト中断の範囲が広がったのだと思われる。この時点で帰国を決定した。戻ってくるかが非常に怪しいため、この時点で寮の引き払いを決断し、緊急引越し帰国RTAが始まった。
寮の退寮手続きは交渉の結果、状況を鑑みて恩赦で翌々日行ってくれることとなった。神だと思った。FMEL大好き。一番好きなMaisonです。そのほか諸々の出国に伴う手続きに関する情報は、周りの(主に日本人の)コミュニティから情報を聞き出しまくってどうにかした。
航空券が少し大変だった。情報が錯綜しすぎていたのと、手続きが全て終わるのか不透明だったことから、この日は購入できなかった。
3月18日
一日中引越しの準備。この時点でスイスは様々な国からの越境禁止措置がなされており、経由地でメジャーなフランクフルトやブリュッセルなどに渡ることが可能なのか不明だった。3時間以上かけて国内で一番大きい空港まで行けば直行便がでているが、数も少なく一本飛ばなかった時のリスクが大きそうだったので、近所の空港から毎日出ているエミレーツ航空のドバイ経由で翌日帰国することを決めた。
帰国後の自主隔離方法も検討していた。自分含め周りの留学生は大体実家しか帰る先がなく(元一人暮らしでも大体契約終了している)、多くは祖父母と住んでいるため、それらの学生は空港近郊のホテルを探しているようだった。正直自分も実家かホテルどっちで自主隔離するべきか分からなかったし、政府などからもそれに関して発表は特になく判断に困った。
感染者数は3070人。死者数は21人。人口が800万人であることを鑑みると、日本より遥かにやばかった。単位人口あたりの感染者数はイタリアに次いで2位。
3月19日
朝、寮のフラットメイトに別れを告げて空港に向かった。複数のスイス人の知り合いから「明日から罰則を伴う厳しい規制が引かれる」という噂を聞いてアブネーと思った。出発地の空港では、必ず人と人との距離を2m以上あけるための強い管理体制が引かれていた。空港にいる人はほぼアジア人だった。
ここからはスムーズに進んだ。遅れていたドバイでの検疫もなく、3時間のトランジット時間をブラブラして潰し、日本行きの飛行機に乗った。
3月20日
日本到着。空港では特に厳しい検疫を受けることもなく普通に入国できた。こんなんで大丈夫かとだいぶ心配になった。帰国時恒例の空港で吉野家の牛丼を食べるイベントも自粛して速攻帰宅した。各方面に帰国を報告した。ニュースを見ると、スイスでは5人以上の集まりに対し罰則が課せられたとの報道がなされていた。あとワニが死んだ。
まとめ。
緊急事態宣言がなされた中で色々と行動すること事態初めてで新鮮で(不謹慎だが)少し楽しかったし、帰国するか(=留学中断)しないかというそこそこ人生を左右する決断を迫られたのも良い経験だった(こちらは微塵も楽しくなかった)。なんか忘れてしまうのももったいないので、そこそこ詳細まで記録として書いておいた。
2月26日に初めて「ん?」と感じる発表を受けてから、キャンパスロックダウンなどの厳しい措置がなされるまで深刻な事態になるまで本当に2週間程度だった。日本は今のところ比較的under controlなため、緊急事態宣言まで出された地域から帰国するとあまりに社会が平穏すぎて逆に不安になる。今は自宅で自主隔離中だが、2週間後に外にでたら外出禁止令で罰金取られた、なんてことがないように祈りつつ、引きこもり生活を送っています。
2019年の話
今年の振り返り
振り返ります。
1月
卒業設計に追われていた。
2月
卒業設計に追われていた。
3月
アメリカの左下あたりをキャンピングカーでうろうろしていた。キャンピングカー自体で旅をするのもかなり楽しかったが何よりモニュメントバレーがすごすぎた。写真には撮れなかったが夜空も死ぬほど綺麗だった。実は2回目なのだが全く新鮮だったしむしろよかった。あと行き帰りの飛行機でボヘミアン・ラプソディを観てクイーンにハマった。
4月
記憶がない。
5月
唯一覚えているのは温泉に向けドライブをしていたことくらい。温泉は最高。
6月
流石にインターンを探し始めた。あと奨学金が通り留学を決断した。
7月
学会で北京に行った(ぼっち参戦)。空気もそこまで汚くはなく、いい感じに雑多な雰囲気がとても心地よかった。万里の長城に行ったら謎の経営学PhD持ち・子持ちおばさんに絡まれ案内してもらった事は今でも忘れない。
8月
旅行とインターンをしていた。あと、車運転していたら事故った。少し保険に詳しくなった。みなさん山道の運転はくれぐれもご注意を。
9月
留学をした。初の一人暮らしで自炊を開始したが最初の1週間はキツかった。日本で定期的に行っていたプールを近所に探すもまともなプールがなく運動不足に陥る。
10月
そこそこ旅行をしていた。あとボルダリングを始めた。寮などで近しい人々につられる感じで始めたが、普通に楽しい。
11月
記憶がない。
12月
スイスのスキーが素晴らしすぎた。日本でもちょいちょい滑っていたけどそれとはスケールが違いすぎた。あとパリで一風堂を食べたり空港でANAの飛行機を目撃するなどして日本への恋しさが少し沸いた。そして今寮の理不尽な掃除チェックにダメ出しを喰らいキレている。
振り返ってみて
1年間の記憶を文字に起こしてみると、旅行などの非日常的イベントに紐づけられた記憶はかなり容易に引っ張り出すことができるのに対し日常的な記憶は掘り出すのがかなり難しく、結果的に記憶がない期間が続出し少し虚しくなることがわかった。院進後も研究室は変わっていないものの、自身の研究の方向性を学部のときのものからガラリと変えた(今はロボティクスをしています)のが個人的には大きな出来事だった気がする。
来年は、やっぱり自分の中で一番心がときめくのは旅行だと常々感じているので、東欧やアフリカなど、欧州からはそこそこ近いが今後は行けなさそうな場所に行くのを目標にします。あと来年2月からこっちで研究をするので頑張ります。
死ぬのがこわい話
数日前、ふと死への恐怖みたいなものを自分も久々に抱きました。
小学生のときも、時々死ぬのが怖くなっていました。自分がいつかいなくなってしまうことに漠然とした不安を覚えた記憶があります。1回親に泣きついた記憶もあります。しかし、その恐怖はいつのまにか消えていました。
その恐怖が、数日前に再燃しました。何がきっかけだったか、明確には覚えていません。たしか、就活を通して人生設計みたいなものにふと目をやってみたときに、人生って始点と終端時刻が定まった最適化問題だよなあと考え、そのときに終端時刻である「死」を直視してしまったからかもしれません。あるいは、ここ数週間タスクに追われる日々だったのが多少ひと段落し、考える時間が生まれてしまったからかもしれません。寝る直前、ふと怖くなりました。
何がこわいのかと言うと、端的に言えば無化が怖いです。今まで途切れることなく*1この意識が続いているし経験則的に今後も続いていくと心のどこかで期待してしまうけど、実はそんなことはなく、いつか必ず死に意識は無くなります。もちろん今までも、いつか意識が途切れ死ぬことは理解していたつもりでしたが、いざその瞬間が来た時のことを考えると急に怖くなってしまったのです。
人間の意識は時間軸の正方向に沿っています。生まれてこのかた、自分の意識と時間とは対応していました。しかし、死を境に意識は姿を消します。時間は進んでいくのに。ああ怖い。
この恐怖の厄介なところは、人に共感してもらったところで決して癒えないという無根拠な確信があった点です。もちろん自分に限らず世の中の多くの人は死を恐れていると思います。それは重々承知なのですが、それでも死が怖いのです。
あと、この疑問を再度抱くようになって、世の中の大半の人々がなぜ死を恐れず平然と生きていられるのかが不思議でならなくなりました(煽りとかではない)。いつか消滅してしまうのになぜ怖くないのか。70や80のおじいちゃんおばあちゃんが死を目前にしてなおなぜ恐れ戦かないのか。ちなみに僕はこれを考え始めてから何もやる気がなくなり、体は重くなり、何か動作をするたびに死を意識してしまうようになりました笑
とある友人にこれを話してみると、古代ギリシャのエピクロスという人の言葉を教えてくれました。
死はわれわれにとって何ものでもないと考えることに慣れるようにしたまえ。というのは、善いことや悪いことはすべて感覚に属することであるが、死とはまさにその感覚が失われることだからである。
死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い。
いやまあ当たり前に聞こえますが、いざ言語化されてみると「たしかに、気づかなかった」となりました。納得しました。
しかし、これを教わってもなお、死は怖いです。「我々は死を経験しない」というのは少なくとも論理的には納得できる。ではなぜ怖いのか。自分の恐怖の根元がよく分からなくなりました。
生きることに愛着があるから?そこまで明確に愛着を感じたことはないのですが、つまるところそういうことなのでしょうか。
あるいは、消滅という体験が未知だから?ただエピクロス的に言えば我々の意識が消滅を感じることはないのだから、何も怖いことはない、となります。うーん。そうなのか?
中学、高校、大学と進みましたが、死を意識することはありませんでした。もちろんニュースでも身の回りでも、死という単語を見なかったわけではないです。また、口先では「死ぬまでに〜したい」だの「〜できるのなんて一生に一度」だの言うこともありました。
決して死を無視していたわけではないのだと思います。でも、どこか他人事のような気分でいたような気がします。不思議ですね。ちなみにこれはハイデガー的には頽落と言うらしいです。
たぶん、臭いものには蓋をする感じで、死を直視しないのが最善な気がします。ですが、今後周りに訪れる死の頻度は上がるでしょうし、自分の死も確実に迫ってきます。今後幾度となく死を意識し恐怖することはあると思います。そのときにこのブログを見返すことができればなあ。はてなブログさん頑張ってください。
あと、この死への恐怖を言語化できる人いたら教えてください、、、。
*1:もちろん寝れば意識は途切れますが、必ず復活します
備忘録
2019年の9月からおよそ1年間、スイス連邦工科大学ローザンヌ校に留学してきます。それに伴って1学年落ちます。1個下の方々よろしくお願いします。備忘録がてら経緯を書いておきます。
きっかけ
もともと(3年くらい前から)スイスが好きで、いつか機会があれば留学してみたいなと思っていました。といっても日本での勉強環境にはそれなりに満足していた(というかB3とかは忙しすぎた)ので具体的に行動に起こしてはいません。
きっかけは、B4の時に配属された研究室に留学している人が多かったこと、どっかの誰かに「留学するならB3かM1が良いよ」と言われたことだったと思います。
理由
一言で説明しづらいのですが、強いて言えば「研究の適性を確かめたい」が一番大きい理由です。
実は、B4のときは研究があまり好きではありませんでした。卒論の時もあまり楽しいと感じたことはありませんでした。ただしばらくして振り返ると、それは「自分が研究に向いていないから」ではなく、テーマと環境に依るところが大きかったのではないかという思いが強くなってきました。
僕の所属している研究室はいわゆる「放置系」で、研究テーマも自分で決めます。僕は残念なことに夢もないし研究したいことも明確でなかったために研究テーマが右往左往した結果、自分でもなにやってんだかよくわからない系の研究に仕上がってしまいました。その結果、あまり楽しめなかったように感じます。
あと、放置系研究室ならではなのでしょうか、「教員→学生」も「学生→学生」も含めて「研究指導」という文化があまりないように感じます*1。独学でやっていける強い人なら良い環境なのですが、小学校でも中学でも高校でも大学でも、幸運にも良い先生の優れたご指導に恵まれた結果ここまで来た甘えん坊人間なので、こうした環境が自分に適していなかった気がします(なぜこの研究室に来たのか、、、)。
おそらく以上のような理由から研究があまり楽しめなかった気がします。そこで、やりたいテーマを今一度考え直し、別の環境に身を置けば、自分と研究の相性がもう少し見えてくるのではないかと思いました。
ぶっちゃけこれに気づいているのが早ければ研究室なり専攻なりを変えるのが最良だったのですが、残念ながらすでに院試も終わり間も無くM1になろうとしているところだったのでそれはやめました。別の環境で研究できる方法何かないかな〜と頭の片隅で考えた結果、ふと思いついたのが留学です。
もちろん他にも選択肢はあったのですが、あとは直感で留学という選択肢を選びました。
留学の内容
たぶん、ロボティクスを勉強します。航空宇宙を勉強していたはずなのにいつの間にかだいぶ違う方向を向いている気がします。
普通に授業も履修しますし、研究もする予定です。詳しいことはいずれまた書くかもしれません。
その他
留学する上で一番大事なのがお金です。奨学金をいろいろ探した結果、トビタテという奨学金にめぐり合いました。なかなかたいそうな金額を数多くの留学生に給付しているMEXTの奨学金です。スイスの物価は正直めちゃくちゃ高いですが、それでも質素に暮らしていけば家賃食費交通費学費もろもろ1年分くらいはトビタテで賄えるのではないかと勝手に思ってます*2。「留学したいけどお金が、、、」という人がいたら、ぜひ奨学金を検索してみてください。僕が無知なだけかもしれませんが、意外とどうにかなる気がします。
なんか自分で読み返してみるとすごく後ろ向きな理由に聞こえますね、、、。今の研究室の良い部分もある(自分のやりたいテーマをじっくり考えることができている点とか)し、留学も今の所はなかなか楽しみです。1年間使って知見を広げるつもりで頑張ります。唯一、今日本にいる人たちと会えなくなってしまうのが寂しいので、ぜひ遊びに来てください。
2018年の話
昨年ほどではないですがそこそこ充実していた気もするのでなんとなく振り返ってみようかなと思います。完全な自己満足です。
テスト期間(1月下旬)
いろいろ忙しくて全然追いつけてなかったので勉強がやばかった。あと,春休みに日本にいないことが確定していたので春休み提出のレポートを泣きながらやってた。泣いてないけど。
ヨーロッパ(1/25~2/25)
某ラリープロジェクトとそのあとの個人旅行で1ヶ月ヨーロッパにいた。前半は死んでた。パリから地中海への1,000 kmドライブは楽しかったけど大会期間中は本当に死んでた。しんどかった記憶しかない。ちなみに後半はEurail Passで回るヨーロッパ鉄道旅行で回復しました。
学科旅行(3月上旬)
名古屋→大阪→鹿児島→種子島のムーブで航空宇宙関連の企業や施設を見学する学科イベント。途中トラブルもあったけど,途中1人だけ抜けて青春18で霧島温泉に行ったり,その先で迷い込んだ謎のローカル駅で(界隈では有名な?)駅弁を偶然ゲットしたり,数名で指宿温泉ドライブしたりとなかなか楽しかった。
研究室配属(4月上旬)
2択で延々と悩んだ末に今の研究室に決めた。後悔しているかどうかはわからない。
空白の4ヶ月(4月~7月)
記憶にない。
院試勉強(8月)
8月上旬に瀬戸内旅行行ってきた。こんぴらさん楽しい。
あとこんなこと言ったら怒られるかもですが,近くを通りかかったので少し真備町を覗きました。実際に被害現場を目の当たりにすると,いたるところに生活の痕跡が痛々しく残されていて,なんともいえない気持ちになりました。ぜひ行って欲しいとは口が裂けても言えないですが,ああいう被害現場を見るのは貴重な経験な気がします。
院試はクソ。
長崎(9月上旬)
軍艦島はいいぞ。あと,五島列島はいいぞ。温泉もあるしお寿司もあるし古民家風のエアビーの宿もあるし「「「島」」」という感じでとても良いのでぜひ行ってください。
河口湖(9月上旬)
研究室旅行。BBQはいいぞ。スモア美味しい。
ヨーロッパ(9月下旬)
某の某が某だったのでタダでロンドンとパリとベルリンを回ってきた。そしてメンバーもなかなか普段会わないような人たちでとても良い刺激になった。
空白の2ヶ月(10月~11月)
覚えてない。
駒場祭(11月下旬)
空白の2ヶ月間はどうやら苦痛だったらしく,おかげで駒場祭はとてもたのしかったです。1年生の皆さんお疲れ様でした。
京都(12月中旬)
某の某で京都でバイトしてきた。ついでに観光してきた。
伊豆ぐるぐる(12月中旬)
車で伊豆半島ぐるぐるしてた。
定期演奏会(明日)
ここまで読んでくださったあなた。僕が所属している合唱サークルの年に一度の演奏会が明日あります。明日あります。明日は暇なそこのあなた,とりあえず新宿に来てから演奏会に行くかどうか考えてください。
開場 = 17:15
開演 = 18:00
場所 = 新宿文化センター
(演奏会情報は個人情報に近いのであとで消すかも。。。)
それでは良いお年を。
ラリーと有人宇宙探査
はじめに
もともと僕の所属する某学科のAdvent Calendar用に書いていたのですが,ポエムの中でも特に意味のない類のポエムになってしまったのでお蔵入りになりました。しかし墓まで持っていくのも忍びないと思い,供養がてら公開します。
俗に言う有人宇宙探査とラリーとが非常に似ているとふと思ったのでその話を書きます。それ以上でもそれ以下でもないです。マジで単なるポエムです。思い付きで書いた文章なので身になる内容や大した主張などもありません。ご了承ください。
ラリープロジェクトについて
そもそも何でラリー?って思われるかもしれませんが,僕は昨年度,旧車をレストアしてラリー大会に出場させるという趣旨の学生プロジェクトに参加していまして,その繋がりです。このプロジェクトではラリーに参戦するための諸々の事前準備を全て行うわけですが,ラリー大会期間中に限っていえばラリーに参戦する車(以下競技車)をサポートする部隊として参加します。
類似点
類似点を書いていきます。
「人が乗った乗り物を目的地に届ける」という形式のミッション
これはまあ述べるまでもないですね。ラリーでは車が目的地に向かうというのがミッションで,一方の有人宇宙探査ではクルーを乗せた宇宙機を(主に地球以外の天体の)探査に向かわせるというのがミッションです。
乗り物に乗るクルーと,それを遠隔でサポートする部隊の存在
有人宇宙探査...宇宙空間を航行する宇宙機にクルーが乗っているのは定義上当然ですが,地上にもそれをサポートする地上局が存在し,プロジェクトマネージャやエンジニアなどが常に宇宙機の状態を監視して指示を行なっています。
ラリー...車を運転するドライバー・コドライバーだけでなく,それをサポートする部隊も存在します。しかもめちゃくちゃ重要です。クルーは基本的に車の運転に専念しているので,食事の調達・燃料補給・車の整備などは道中にサポート部隊が対処します。当然2つの部隊に分かれるので,事前に行動の打ち合わせをしつつ,ミッション中も可能な限り連絡を取り合う必要があります。
乗り物に要求される冗長性
ラリーでも有人宇宙探査でも,乗り物には高い冗長性が要求されます。
有人宇宙探査...宇宙機は一般的に非修理系に該当するため,一部のセンサやアクチュエータなどの中でも重要なものや壊れやすいものについては複数搭載したり,壊れても致命傷にならないようなバックアップを用意しておくことにかなりの心血を注ぎます。
ラリー...例えばスペアタイヤなどが代表例ですが,他にもその場で修理するための最低限の道具を積んでいく他,壊れやすい部品などは事前に調べておいてそのスペアを搭載しておく必要があります。
(サポート部隊による)クルーへの配慮
ラリーでも有人宇宙探査でも,クルーの健康状態や精神状態にはかなりの配慮をします。
有人宇宙探査...たとえ自動航行だとしても何か予期せぬトラブルが起きたときにクルーが対応する場面は少なからず存在するでしょうし,そういうときにクルーが万全の状態でなければ判断を誤ってミッション失敗なんてこともあり得ます。
ラリー...こちらはクルーが全て操縦するので,その人たちの健康状態・精神状態にはかなりの気を使う必要があります。宇宙探査におけるクルーに比べればそこまで行動範囲は制限されていませんが,それでも長時間競技によって食事を取る暇がほとんどなかったりするので,例えば食事を提供するにしても栄養面や食べきるのに要する時間なども考える必要が出てきます。
通信の重要性
おそらくどちらのミッションにおいても,通信というのはかなり重要な要素です。
有人宇宙探査...地上から宇宙機を視界に捉えることはできませんし,電磁波による通信で情報のやり取りを行う必要があります。
ラリー...サポートとクルーが常に一緒に行動するわけには当然いきませんから,車をサポートの視界に常に入れることができない以上,意思疎通の大部分は通信に委ねられます。ラリー一般がそうなのかは知りませんが,少なくとも僕が経験した範囲で一番大きかったトラブルは,サポート同士 or サポート-クルー間の通信が不安定だった点でした。
環境の過酷さ
「過酷さ」という曖昧な表現で濁していますが許してください。
有人宇宙探査...いうまでもなく過酷です。ロケットで打ち上げる時は相当な荷重と振動が加わります。宇宙に行けば,超高真空環境やら,3Kの極低温環境やら,銀河や太陽から飛んでくる宇宙線やらが宇宙機を襲います。やばいです。
ラリー...真空でも3Kでも放射線環境下でもないですが,大概のラリーは過酷っぽいです(適当)。そもそも数千キロにも及ぶ距離を短期間で走るとそれだけでオイル類がへたったりします。それに,悪路をガンガン走ったりして足回りを痛めたりタイヤがパンクしたりと,普段の走行ではなかなかお目にかかれないようなハプニングがわんさかおきます。普段のドライブなんて屁の河童レベルで過酷です。
まとめ
ラリー,考えれば考えるほど有人宇宙探査に似ているし,むしろ有人宇宙探査にこれほど似ているものって他にないんじゃないかという気すらしてます。なんかあったら教えてください。
マジで「だからなんだ」っていう内容でごめんなさい。他に書きたいこともなかったので書いてみました。
もし有人宇宙探査に興味があるという稀有な人がいたら,ラリープロジェクトは良い経験になると思います。ハードウェアやプロジェクトマネジメントの知識もかなり身につきますし。
ルワンダのドローンサービスがすごい話
イッテQのワールドツアーでイモトがルワンダを紹介していたのですが、そこで出てきたルワンダのドローンサービスがすごかったので備忘録も兼ねて書きます。
シリコンバレー発のziplineという会社です。
ドローンを使って、 山奥にある病院に輸血用の血液や薬品などを迅速に空輸するサービスを提供しています。自動操縦で目的地に向かい、到着したら荷物をパラシュートで落としてそのまま帰還するというもの。
航空宇宙工学を多少なりとも勉強した身としては、このドローンが非常によくできていて感動しました。設計ですげーと思ったことをいくつか。↓
1. 固定翼ドローン
最近よく聞くドローン空輸で使われるドローンって回転翼式じゃないですか。小さい翼をモーターとかでブンブン回すことで、揚力*1を得るドローンです。VTOL(垂直離着陸機)とも呼ばれたりします。
けどこのドローンは、固定翼です。回転翼(=プロペラ)もついてはいますがこれは揚力ではなく推力*2を生み出すためのものです。その代わり、揚力は固定翼で生み出しています。
固定翼の何が良いかって、回転翼に必要なパワーが少なくて済むんですよね。翼の形とか知らないとわかりませんが、多分回転翼ドローンの10~30%程度で済むと思います。
あと、回転翼ドローンよりも速く移動することができます。サービスの性質上、スピードは大切なんでしょうね。
2. V字尾翼
普通の飛行機は水平尾翼と垂直尾翼が付いていますが、このドローンはV字尾翼という特殊な尾翼を採用しています。
このV字尾翼を採用している理由ですが、尾翼の枚数が減るのでその分だけ空気抵抗を減らすことができるのが狙いなのではないかと思います(たぶん)。
上でも述べたように、抗力を減らすことで、必要な推力が少なくて済むのでバッテリーも小型化できたり、あるいは必要な翼面積が減るので主翼を軽くできたりするので、機体を軽くできます。
3. 着陸方法が独特
固定翼の大きなデメリットですが、離着陸がとても面倒です。滑走路が必要ですし、離着陸は技術的にもとても難しいです。あと脚を付けなきゃならないのも難点ですね。
しかしこのドローンは、お尻に付いたフックを地上に固定されたワイヤーに引っ掛けて、強制的に停止するという独特な着陸方法を使っています(もはや着陸ですらない)。
一見バカみたいに見えますが、確かに滑走路もいらなければ脚も搭載しなくて良い。その分いろいろと設計を簡略化できるので、変なミスをする心配も減る。すばらしい。
ただフックをワイヤーに引っかけるという行為自体はかなりの精度を要求されるでしょうし、制御技術やワイヤーへのアプローチの仕方、フック周りの形状の工夫など色々と考えることは多そうですが、これを見事に実現してるziplineすごい。。。
4. 自動操縦
固定翼機は、回転翼機より制御が難しいです(たぶん)。
角度の制御が甘いと、翼の気流が乱れて失速してしまったりします。あと、荷物を落とした瞬間に機体の重量が変わるのでその辺りの制御もかなり難しそう。下手な設計にすると落とした瞬間に失速して墜落とかあり得そうです。
特徴的だなと思ったのはだいたい上記の4点くらいでした。何がなんでも機体を軽くして十分な量のペイロード(=血液や薬品)を載せ、また燃費をよくすることでサービスの提供地域を広げようという強い意志を感じる設計ですね。実際この機体は半径55km圏内なら荷物を届けて帰ってこれるらしい*3。面積にすると、 程度です。
ちなみに群馬県の面積がなので、群馬県くらいならカバーできるくらいの行動半径ですね。
設計もすごいですが、そもそもこのサービスの運用地域として最初に選んだのがルワンダってのも、番組を見ていてなるほどなあという感じでした。
- 山がちな地域で、車での移動は時間がかかる
- 医療制度・設備が未熟
みたいな場所らしく、かなり需要があるっぽいです。
ただ、固定翼だと荷物の投下地点の精度は、ホバリングで落下地点を定められる回転翼機に劣ってしまいます。そのため、密集した都会部での運用には向いていない設計だと思われます。田舎向けですね。日本でも群馬県とかなら運用できるかもしれません。
別にドローンのデリバリーサービスの動向とかを詳しく知っているわけじゃないですが、テレビを見ていてすげーとなったのでまとめてみました。おしまい。
*1:上に浮く力のこと
*2:前に進む力のこと
*3:https://pdfs.semanticscholar.org/5d42/ccdc6b5afd0ff8407a389789e1055de84fef.pdf